印象派画家の真実とは?旅する印象派(4)

  • 2018.6.11

パリの郊外、セーヌ川の下流に印象派の画家たちが集った小さな町ルーヴシエンヌがある。再びサン・ラザール駅から列車に乗り、30分ほど揺られた。ルーヴシエンヌ駅で降りた乗客数人は、出迎えの車に乗ってすぐに立ち去った。観光客は私一人。近くにある役場までのんびり歩く。

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 観光案内で町の地図をもらった。表題は「Le Chemin des Impressionnistes(印象派たちの道)」。モネ、ルノワール、シスレー、ピサロが描いた25カ所が示してある。「みんな、この町に来たのよ」と窓口の女性は誇らしげだ。地図を手に散策すると、4人の作品を紹介する看板があちこちに立っていた。
 印象派展の創設メンバー、カミーユ・ピサロ(1830~1903)は1869年、ルーヴシエンヌに移り住み、季節や時間帯によって移ろう街道の風景を繰り返し描いた。モネの睡蓮(すいれん)のように。「ピサロが自分の表現をつかんだ場所です」と兵庫県立美術館の鈴木慈子学芸員は語る。
 「ルーヴシエンヌの雪道」は落葉した街路樹が哀愁を誘う作品だ。これを描いて間もなく普仏戦争(1870~71年)が始まり、ピサロはロンドンへ疎開する。作中の街路樹はプロイセン軍に伐採されたという。

カミーユ・ピサロ《ルーヴシエンヌの雪道》1870年頃
©Foundation E.G. Bührle Collection, Zurich (Switzerland)
Photo: SIK-ISEA, Zurich(J.-P. Kuhn) 

カミーユ・ピサロ《ルーヴシエンヌの雪道》1870年頃
©Foundation E.G. Bührle Collection, Zurich (Switzerland)
Photo: SIK-ISEA, Zurich(J.-P. Kuhn)

ピサロは1872年、馬車が通るこの道を描いた。作品を紹介する看板が立っている。

ピサロは1872年、馬車が通るこの道を描いた。作品を紹介する看板が立っている。

 町の象徴である水道橋に足を運んだ。この堅固な石橋の上で、プロイセン王ヴィルヘルム1世と首相ビスマルクは、激しい戦闘が続くパリ包囲戦を見物したと伝わる。印象派画家たちは激動の時代を生きたのだ。

全長640㍍のルーヴシエンヌ水道橋は、セーヌ川の水を引き入れるために17世紀に造られた。両端に塔がある。

全長640㍍のルーヴシエンヌ水道橋は、セーヌ川の水を引き入れるために17世紀に造られた。両端に塔がある。

美術史に残る印象派展だが、全8回に出品したのはピサロだけ。「晩年まで徹頭徹尾、印象派とは何かを考えたのだろう」と鈴木さん。第8回(1886年)に参加した、スーラやシニャックら親子ほど年が離れた新鋭とも交わった。
 親交があったのは印象派の仲間ばかりではない。激しい色彩で知られる20世紀初頭のフォーヴィスム(野獣派)の中心人物、アンリ・マティス(1869~1954)もその一人。20代でパリのセーヌ川沿いにアトリエを構え、部屋から見えるサン・ミシェル橋やノートルダム大聖堂を描いた。「マティスはこの時期に最も多くを吸収し、消化してはき出した」と京都橘大学の大久保恭子教授は話す。
 1897年作の「雪のサン=ミシェル橋、パリ」は、セーヌ川を航行する蒸気船と重厚な石橋がモチーフ。白と灰色で描く冬のパリは、色彩豊かなマティスのイメージからほど遠い。この頃、ピサロと知り合ったという。「マティスは印象派やポスト印象派の影響を受けながら成長し、フォービスムに至った」と大久保さん。印象派からは光の表現法を学ぼうとし、ピサロが触媒の役割を果たした。2人が灰色を基調に描いた雪景色の雰囲気は、どことなく似ている。
 登場時、専門家に酷評された印象派だが、それぞれ試行錯誤を重ねて独自の画風を切り開いた。その革新性が次世代のフォービスムやキュビスムにつながっていく。
 現存するサン・ミシェル橋も訪ねてみた。三つのアーチ構造の石橋や両岸の建物は120年前の風景と変わらず、観光客を乗せた船が行き交う。マティスの絵の中にいるような気分になる。
     
 スイスのコレクター、エミール・ゲオルク・ビュールレ(1890~1956)は好みだけで名画を集めたのではない。当初の関心は印象派とポスト印象派だったが、やがてその眼は筋を追うように、前後の時代の作品にも向かった。学生時代に培った知識に裏付けられた美術史を、自宅で可視化したのだ。
 孫のクリスチャンさんは言う。「悲惨な戦争を経験したことも美しい絵に魅せられた要因だろう。仕事に厳しく、孤独が好きだった祖父は絵を眺めて過ごす時間が長かったそうです」
 ビュールレは1955年に心筋梗塞で倒れ、作品収集を一時中断したが、ほどなくして再開する。晩年は収入の大半を美術品に費やす。人生の“終着駅”が近いことを察していたのかもしれない。翌年、66歳で亡くなった。その後も作品収集を続けていたら、どんな美術史を編んだのだろうか-。
 「ビュールレ・コレクションは、彼が個人的な美術史を作った点に重要性がある。だから、チューリヒ美術館に移管されてもそのことを示したい」と所蔵財団のルーカス・グルーア館長は語る。ビュールレの思いは次世代に受け継がれていく。(野村大輔)

=6月3日西日本新聞朝刊に掲載=

※情報は2018.6.11時点のものです

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