【福博今昔通り物語】vol.4 昭和通り編~「50メートル道路」と呼ばれ

 博多湾に程遠い福岡市北部のエリアを東西に走る「昭和通り」。かつては「50メートル道路」の名で親しまれました。幅員50mというのが由来で市内有数の広さを誇るこの通りには、戦時中の建物疎開や戦後復興事業など数々の歴史が刻まれています。

建物を「疎開」戦後復興事業で
 昭和通りは、福岡市博多区の石堂大橋交差点から、同市中央区の荒戸交差点までの3.4km。正式な路線名は市道博多姪浜線です。1969年、市制80周年の道路愛称事業で「昭和にできた代表的な道路」などとしてこの名が名付けられました。

2019年。石堂大橋付近。上方には福岡都市高速が走る

  第2次大戦中、空襲による火災の延焼を防ぐため、民家などを「強制疎開」させることが各地で行われました。福岡市土木史によると、市内でも20カ所を超える場所で行われ、現在の石堂大橋西岸(同市博多区)から舞鶴1丁目交差点(同市中央区)までの約2kmも、幅員20~30mに及ぶ民家の「強制疎開」が行われ、このエリアが後の昭和通りの基盤になったといいます。
 終戦後に行われた戦災復興土地区画整理事業の中で、市は最大幹線の幅を50mとし、現在の「大博通り」「渡辺通り」を縦軸に、「昭和通り」を横軸として、これらの新線にさまざまな道路を縦横につなげる都市計画を立案。昭和通りは都市の大動脈として整備され、その最大幅員から50m道路と呼ばれるようになったのです。

散水車が出動「集団山見せ」も
 都市の復興は進みましたが、50年代初頭の福岡市は「悪路で有名」という不名誉な状況だったといいます。福岡市史によると、市道の舗装率が低い上に、車の交通量が急増。路面の損傷が進んだことが原因のようです。52年8月16日付の西日本新聞夕刊は「市内で一番ひどいほこりの街」である50メートル道路(現・昭和通り)一帯に、地元の要請で散水車が出勤、ほこりがひととき収まったと伝えています。

1952年。ほこり対策に街を走る散水車

 博多伝統の夏祭り「博多祇園山笠」で、祭り期間中に唯一、舁き山笠を博多から福岡支部へ舁き入れる「集団山見せ」福岡市が観光振興などにと要請し62年に始まりましたが、当初は昭和通りで行われていました(現在は明治通りで実施)。

1962年。沿道から盛んな永遠が送られた「集団山見せ」

 62年には全国高校駅伝で優勝した福岡大大濠高の選手がパレードするなど、通りには、さまざまな歴史が刻まれています。
 現在も、路線バスや自動車がひっきりなしに行き交う昭和通り。メインストリートの一つとして街の発展を支えています。

1962年。全国高校駅伝で優勝しパレードする福岡大濠高

◆~ちょっと寄り道~近くの通り散策◆
「日銀通り」

 昭和通り沿いに立つ日本銀行福岡支店(福岡市中央区天神4丁目)。その東側の道路は「日銀通り」と呼ばれています。同支店はもともと現在のづく天神1丁目にありましたが、1951年、今の場所に移転。引っ越しの様子を伝える珍しい記事が同年9月6日付の西日本新聞朝刊に掲載されています。同支店は老朽化のため建て替え中で、2021年に完成予定です。

日銀福岡支店の引越しの様子を伝える西日本新聞紙面

「かもめ広場通り」
 昭和通りの北側、博多漁港西端の福岡市中央区港地区にある「かもめ広場通り」。この辺りには1920年代、水上飛行機の格納庫が設置され、福岡初の水上飛行場があったといいます。しかし、数年後に名鳥飛行場(現・同市東区)が開場し、短い歴史に幕を下ろしました。

水上飛行場跡について説明する看板

企画・制作/西日本新聞社メディアビジネス局

※情報は2019.6.6時点のものです

※情報は2019.6.10時点のものです