『西郷どん』最期の戦い16 故郷・城山で壮絶に散る

西郷隆盛の生涯を描く大河ドラマ『西郷どん』。その最期の舞台となるのは、51歳の生涯を閉じることになる「西南戦争」だ。九州が戦場になった「西南戦争」を福岡の人たちはどう受け止めていたのか。

140年前の新聞を元に『西郷どん』の最期の戦いを再現してみよう。

【前回の話はこちら▼】

『西郷どん』最期の戦い15 論考が指摘した西郷の「魔力」とは

■筑紫新聞カルトクイズ15■

賊軍の「西郷どん」に忠誠を尽くす人々が、なぜ存在するのか。「筑紫新聞」は分析を試みて、その結末をどのように結んだのでしょうか。

(1)西郷隆盛に脅迫されて仕方なく従っているのだとした

(2)西郷隆盛の考えに心酔する人が多かったとした

(3)新聞社には解らないので解説できる人がいれば投書してほしいと呼びかけた

答えは(3)新聞社には解らないので解説できる人がいれば投書してほしいと呼びかけた、でした。

質問の答えは得られなかった

「筑紫新聞第23号」(明治10年6月1日)「稟告」の結びは、「…新聞社は分析できないでいる。…解説してくれる人がいるならば、投書してほしい。紙面で随時紹介する」と解説投稿を公募した。

「筑紫新聞第25号」(明治10年6月7日)には、さっそく投稿を紹介しているが「人材が集まっている新聞社でも解説できないようであれば、誰にもできないでしょう。国民会を開いて精密に分析してはどうでしょう」(鎮西中立居士)と、質問への答えは得られず、「西郷隆盛が人を惹きつける魔力」について、その後も決定的な解答は寄せられなかった。

城山に立てこもった西郷隆盛が起居したと伝わる洞窟。最後の日、西郷は薩摩軍幹部ら約人と洞窟前に整列し、谷を下って突撃を敢行した=西日本新聞提供

城山に立てこもった西郷隆盛が起居したと伝わる洞窟。最後の日、西郷は薩摩軍幹部ら約人と洞窟前に整列し、谷を下って突撃を敢行した=西日本新聞提供

戦いが峠を越えて福岡の戦争景気が終わる

7月に入ると西南戦争は峠を越えた感が強まる。官軍の進撃で戦線は熊本県南部から、宮崎県、鹿児島県へと南下。「筑紫新聞」の読者がいる福岡県からは遠く離れてきた。

「筑紫新聞第35号」(明治10年7月8日)によると、「…福岡県下では…西南戦争が起きてから、人力車などの輸送車両の需要が急増して1日に100台も製造して、大繁盛していたのも今は昔の話となった。戦場が南に下がるにつれて、官軍の輸送部隊の本部は熊本県内に移動し、福岡県内は急に不景気となった」と伝える。

さらに「…色々なものが売れたので、商人は競って様々な商品を遠国より買い集めていたが、こうした商品が戦地の熊本であふれかえっていて、さっぱり売れなくなり、大損した商人も多い」と、物資の在庫がだぶついている様を伝えている。

戦争景気も峠を越した一方で、高騰した物価は元に戻らなかった。
明治10年4月19日には、米一石が4円50銭だったが、「今の米価は6円内外に、ロウソク油は値上がりが激しく、人力車の運賃も値上がりしたままだ」と、戦争に伴う経済的な現実を報道している。

休刊を予告する「筑紫新聞」

戦場が遠ざかり、薩摩軍の敗勢が定まると人々の興味は、戦況報道から離れて行く。迫りくる戦火を市民に伝えようとあわただしく発刊した「筑紫新聞」側も、もっと本格的な新聞として出直したいとの思いを強くする。

「筑紫新聞第35号」の末尾に「社告」を出して休刊を予告した。
「筑紫新聞は、あわてて発刊したために印刷機も活字の準備も不十分でした。今後、紙面を大きくして、価格も安くするために改革したいと思いますので、しばらく休業します」

この時点で「西南戦争」は終結しておらず、「筑紫新聞」は第35号の廃刊社告の後も、「9月、第40号まで発行して廃刊した」という文献が複数存在する。

薩摩軍将兵2023人が眠る南洲墓地。中央の西郷隆盛の墓を、桐野利秋や篠原国幹、村田新八ら幹部の墓が囲むように並ぶ=西日本新聞社提供

薩摩軍将兵2023人が眠る南洲墓地。中央の西郷隆盛の墓を、桐野利秋や篠原国幹、村田新八ら幹部の墓が囲むように並ぶ=西日本新聞社提供

「西郷どん」故郷の城山で壮絶に散る

宮崎県北部にあって、もはや敗勢を挽回できないと判断した「西郷どん」は、8月16日、これまで従軍して来た兵士に向けて「解散令」を出す。去るも残るも自由、との宣言で、各地から従軍していた「同盟軍」は去り、薩摩軍の中核だけが残った。

数百人規模に縮小した薩摩軍は、宮崎県北部から山間部伝いに官軍の包囲を突破して明治10年9月1日、すでに官軍が制圧する鹿児島に帰還する。

「西郷どん」は、官軍の虚をついて守備隊を蹴散らし、城山の陣地を奪って、一時的に鹿児島を奪還する。出発するときは1万を越す大軍だったが、帰還したのは数百人あまり。

「西郷どん」の帰還に市民は熱狂したが、2日後には5万の官軍に、城山が完全包囲される。明治10年9月24日午前4時、官軍の総攻撃が始まると、「西郷どん」は腹心の同志たちとともに死に場所を求めて出撃し、被弾して負傷する。

「薩南血涙史」(加治木常樹、大正元年)によると、倒れた「西郷どん」は、別府晋介に「晋どん、晋どん、もうここらでよかろう」と、声をかけて、東の宮城の方角を向いて座り自決を示唆した。
別府晋介は重傷を負って歩けない状態だったが、「西郷どん」の言葉を聞いて、立ち上がり刀を抜いて「御免なったもんし(お許しください)」と叫び、首を斬った。

その後、「薩南血涙史」によると、官軍は、薩摩軍の負傷兵を収容していた永田病院、蓑田病院までも襲撃。掲げていた白旗を無視して、看護婦の制止と懇願を聞き入れず、負傷者全員を惨殺して病院に火をかけている。

「筑紫新聞」は、西南戦争の終結と「西郷どん」の最期を、どのように報道していたのだろうか。未発見の第36号から40号が現存していれば、記事の内容がとても気になる。

最後のカルトクイズを出して終わりとしたい。

■筑紫新聞カルトクイズ16■

廃刊した「筑紫新聞」の流れをくむ新聞社は、次のうちどれでしょう。

(1)明治11年創刊「めさまし新聞」※明治12年「筑紫新報」に改題

(2)明治13年に創刊した「福岡日日新聞」

(3)昭和17年に創刊した「西日本新聞」

答えは3つとも正解です。

(以上完結)

※情報は2018.8.10時点のものです

げこげこ大王28世

1997年1月から2005年12月まで、げこげこ大王7世として、カエルに特化したニュースを集めたインターネット「」を運営。1999年から2008年まで10年間、そこから派生したイベント「福岡かえる展」を主宰した。

2012年、げこげこ大王28世の名で、筑豊を舞台にした映画脚本「川筋男貫徹炭坑節命(かわすじおのこくわんてつたんこうぶしいのち)」が・優秀賞を受賞。2013年、福岡市ワンミニットフィルム コンペティションで映像作品「」(古野翼監督、優秀賞受賞)の脚本を担当。地元、九州を描いた創作も続けている。

現在は、フェイスブック上で「」を主宰し、2018年、10年ぶりに「福岡かえる展11」を復活する。

趣味は古今東西の戦記を読むこと。西郷隆盛の最後の戦い「西南戦争」を報道した明治時代の新聞「筑紫新聞」(1877年、明治10年)の読み解きにもかかわり、当時の戦況報道を検証している。

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